Short Storyショートーストーリー

青木淳悟
「いままでに、飲んできたもの」2007年3月28日

あんたは本当にミルクを飲まなくてねえ、と母がよく言ったものでした。「子育ての苦労話」を子供に語って聞かせるわけです。もうぜんぜん飲んでくれなくて、あんたは生協のオレンジジュースで育ったようなもんだよ(正確にはみかんジュース。国産温州みかんを100%使用。濃縮還元果汁ではなくストレートタイプ)。

と、そこまでは、子供ながらに健康志向だったのです。三歳か四歳のうちまでは。しかし五歳や六歳ともなると、自動販売機の上段のボタン列にもそろそろ手が届き始めます。

二十年も前の昔には近所にコンビニはないし、ましてファミリーレストランのドリンクバーなどありはしません。小学生は商店街の一角や最上階にゲームコーナーがあるような大型店に足を運び、飲み物に関してはもっぱら自動販売機で購入していました。「コイン投入口に硬貨を入れる」→「ボタンを押す」→「ドスッ」→「取出口に手を差し入れる」。こうしてみるといかにも味気ないようですが、いまでは製造停止になったいくつかの清涼飲料水は我々世代の郷愁を誘います。

成長して中学生。部活と飲み物。練習中は水道水、大会では水筒持参。ある大会でスポーツドリンクを買ってきていた友人が顧問に死ぬほど怒られる。同じ銘柄の「素」を水で溶いて持ってきていた水筒組(私です)は許される。高校の校舎に設置されていた自動販売機を初めて見たときの軽い衝撃。そのつり銭口から偽造五百円硬貨が出てきた事実。浪人中の、午後の眠気を誘うかのような甘い缶コーヒー。学生時代には大学生が行くような店で大学生が飲むようなものを。そしていま。

いま、自宅には恋人のみかんちゃんがいます。そんな柑橘系の女性をここへ連れてこようとは思いません。何となくこの店のことは秘密にしておきたいので。ごめんなさい。一人で真剣に、これから例のビールを飲むところです。

Profile

青木淳悟(あおきじゅんご)・作家
1979年埼玉県出身。早稲田大学文学部卒。
2003年『四十日と四十夜のメルヘン』で、第35回新潮新人賞を受賞。
2005年、第27回野間新人賞受賞。

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