Short Storyショートーストーリー

春口裕子
「ほっぺたぎゅーんの喜び」2004年4月27日

お腹ぺこぺこ、喉からから。そんなときに食べたり飲んだりするモノの、なんとおいしいことか。最初の一口は特に感動的だ。頰がぎゅーんと、へこむみたいに痛くなる。

学生時代、部活の後に買い食いしたソースたっぷりのコロッケパン。

仕事中、イライラしたとき口に放りこむとろける甘さのチョコレート。

海外から帰った後の、ネギがふんわりのった豆腐と揚げのお味噌汁。

おいしいモノをおいしくいただく幸せ。ああ、人間でよかった。

ところが私には、長らく良さのわからないものがあった。酒である。ケーキに入っている洋酒で目がまわるほど弱く、味を楽しむ余裕がなかったのだ。

かといって彼(酒)を憎んでいたわけではない。むしろ彼や、彼をとりまく雰囲気には憧れがあって、「なんとかお近づきになれぬものか」という野望めいたものもあった。

そんな娘の気持ちを知ってか、ある日父がこう言った。

「裕子よ、そこに座りなさい」

テーブルには梅酒とグラスが置かれている。

「無理はせんでいい。量も関係ない。おいしいと思えるようになればいい」

かくして父とサシでの特訓がはじまった。はじめのうちは、ほんの数口でバタンキューという「修行か、これは」と思われる日が続いた。

人間でよかった。そう思う瞬間に、”お酒を囲むひととき”が加わったのは一体いつだったろうか。特訓は、いつの間にか実を結んでいたのだ。

仕事帰りや休日に、友人たちと集う。

うれしいのは、一杯目が運ばれてくるまでの時間を、みんなと一緒に楽しめるようになったこと。何より、最初の一口に頰がぎゅーんと喜ぶようになったことだ。

ただし、やっぱりたくさんは飲めない。だから、おいしいお酒を、ほんの少しだけ。

せわしさも煩わしさも、グラスを合わせるこの一瞬だけは忘れよう。

Profile

春口裕子(はるぐちゆうこ)・作家
神奈川県出身。大学卒業後、損害保険会社に勤務。広報の仕事で書いたエッセイがきっかけで物書きの道へ進むことを決意し、2001年退職。同年「火群の館」でホラーサスペンス大賞特別賞を受賞。翌年、同作品でデビュー。
エッセイストとしての活動も注目を集めている。

作品
「火群の館」(新潮社)
「女優」(幻冬舎)
アンソロジーに、「翠迷宮」(祥伝社)、「結婚貧乏」「with you」(幻冬舎)「ああ、恥ずかし」(新潮社)

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